ヘルスケア(医療)は権利か特権か:米国大統領選のポイント

米国のヘルスケア(医療)について、おそらく99%の日本人が知らないことを書きます。2020年の米国の大統領選でも国を二分するテーマの一つのため、知っておくとより大統領選についての理解が深まるかもしれません。

ヘルスケア(医療)の特殊性

医療は様々な点で特殊な業界ですが、その特殊性の一つに、人々が「特権」(privilege)ではなく、「権利」(right)だと考えていることがあります。つまり、「対価を払える人だけが手に入れられるものではなく、全ての人に与えられるべきものだ」という考え方です。

例をあげてみます。自動車は高級品で、新車の場合は100万円を超え、保有している人と保有していない人がいます。「国が全ての人に自動車を与えるべきだ」と考える人は少ないのではないでしょうか。

一方、日本人の主な死因の一つである、ガンの手術や治療でも100万円を超えることは珍しくありません。ガンも発症する人と、発症しない人がいます。しかし、日本人の多くが「国はガンの治療を全ての人が受けられるようにするべきだ」と考えるのではないでしょうか。

「医療のような人の命に関わるものに関しては、全ての人が受けられるようにするべきだ」、という考え方は医療を「人権」として捉えています。

一方、「医療もサービスの一種であり、高い金額を支払える人は高い医療サービスを受ければいい。お金がない人は質の低い医療サービスでも仕方ない、あるいは医療を受けられなくとも仕方ない」という考え方は、医療を「特権」として捉えています。

前者のように医療は「人権」であると捉える考え方が日本、西欧、オーストラリアでは主流です。これらの国は国民皆保険制度を持ち、国が標準治療(standard of care)を決め、国が保険の仕組みを用いて費用の全額・または大部分を支払う仕組みとなっています。

標準治療が決まっており、医療へのアクセスが保証されているため、たとえお金がない人であっても一定水準以上の医療を受けることができます。一方で、自由診療の幅は保険適用を行わないことによって、狭められている場合が多いです。

後者の「特権」として捉える考え方はアメリカ(特に共和党支持者)で根強いです。

「自堕落な人(ハードワークでない人)がお金を稼げない。自制心がない人が不健康な生活を送り、病気になる。そんな人たちを助けるために、どうして健康な自分が高い保険料を支払わなければならないのか。それならば、国に強制されるのではなく、自分で内容を選べる自由が欲しい」

つまり、「経済的に貧しい人や不健康な人は自己責任の要因が大きく、そんな人たちのために高い保険料は支払いたくない」という考え方です。また、「国民皆保険となり、標準治療が決められると、自由診療の幅が狭められて、自由度がなくなる」ことも懸念しています。

前者と後者でかなり考え方が違いますね。アメリカは国民皆保険制度を成立させようと1910年代、1930年代、1940年代、1960年代と過去何度も国民皆保険制度の法案が作られ、採決が行われましたが、全て失敗しました。背景にはヘルスケアは「特権」であるという考え方が根強いことがあります。

アメリカの医療制度

アメリカの保険は大きく分けると、連邦・州が運営する公的保険と民間保険の2種類です。詳しく説明すると論文にできるくらい長くなりますので、概要のみ説明しています。

連邦・州が運営する公的保険

Medicare (メディケア)は連邦が運営する、65歳以上の高齢者と障害者向けの公的保険で、Medicaid (メディケイド)は連邦と州が運営している、低所得者向けの公的保険です。また、少し特殊ですがVA (Veteran’s Administration)という軍人・退役軍人向けの保険もあります。

Medicareは6,000万人、Medicaidは5,700万人、VAは1,200万人と、米国の人口、3億3,000万人の1/3以上が公的保険に加入しています。

ただ、逆に言えば、残りの2億人は公的保険に入っておらず、民間保険に入ることになります。

民間保険

アメリカの民間保険は多種多様ですが、約半分の1億6,000万人は雇用主が提供している従業員向けの民間保険に入ります。

保険により、 (1)カバーされる病気、(2)通うことができる病院、(3)自己負担額の割合、(4) 加入者が支払われければならない金額(deductableと呼ばれます)、などが異なります。

日本人からすると馴染みにくいと思いますが、いつでもどの病院にでも行けるわけではなく、「保険により」、保険適用でかかれる病院、医者、待ち時間、受けることができる治療法が変わります。

一般的には、保険料が高い方がより病院と医者を選べる自由度が高く、より早く、幅広い治療方法へのアクセスがあり、支払い金額も少なくなります。

雇用者が提供する保険がない人は、保険市場(healthcare marketplace)から保険を買ったりしますが、こちらは州により異なったりと複雑です。

無保険

アメリカの保険料は高額であるため、保険に入っていない人も約9%の3,000万人近くいます

この3,000万人のうち、それなりの割合は保険料が高すぎるという理由で無保険状態になっている人たちだと考えられます。

オバマ政権時には無保険者は15%以上いたのですが、「オバマケア」と呼ばれる一連の公的医療保険改革の一つの施策として、Medicaid (メディケイド)に入れる人の収入を幅広くしたため、無保険者ですが保険に入りたい人の多くがMedicaid保有者になりました。

また、オバマケアでは既往症を持つ人を保険会社が断れないようにしたため(オバマケア以前は既往症を持つ人の多くが、医療費がかかることが理由で、民間保険会社に保険に入ることを断られていました)、既往症を持つために無保険であった人も民間保険に入れるようになりました。

一方で、既往症を抱えた人が保険に入れるようになったことにより、健康な人の保険料は上がりました。これがオバマケアに不満を持つ人の理由になっていますし、トランプがオバマケアを撤廃しようとした一つの理由でもあります。

なぜヘルスケアが大統領選の大きな論点になるか

一言で言うと、アメリカの医療制度は高額かつ不平等であり、誰もが不満をもっているからです。

アメリカ人は国民一人当たり、保険・医療費で毎年$10,500 (110万円)を支払っています。これは先進国の約2倍にあたる数字です。

国民一人当たりの医療費

それにも関わらず、平均寿命は他の先進国に比べて2歳近く短くなっています。一人当たり2倍の医療費を支払って、国全体の平均寿命が他国より低いというのは、医療システムが非効率であることを示しています。

先進国の平均寿命

また、米国の平均寿命は所得水準と人種で統計的に優位な差があります。

白人の中間層以上に生まれれば平均寿命は先進国の平均と同じかそれ以上の結果となります。一方、有色人種の貧困層に生まれれば平均寿命は短くなります。生まれや収入で医療へのアクセスが変わる現状に、中間層であっても不満を持つ人は増えていっています。

また、高齢化と医療の高度化に伴い、保険料は年々高騰していっています。保険料は、若者世代にとって特に大きな負担です。アメリカは大学の学費の高騰化に伴い、ほとんどの学生が数万ドルの学生ローンを背負って社会に出て行きます。そんな状況で毎月の高額の保険料を支払うことに、不満を募らせています。

そんな状況に対し、民主党候補(特にバーニー・サンダース)は「国民皆保険」を導入することが医療費、保険料を下げ、医療へのアクセスを万人に行き渡らせる方法だと提案しています。

医療は「特権」ではなく「権利」だ、というのがサンダースの主張です

一方、トランプをはじめとする共和党は、アメリカ人の「自由を尊ぶ」、「自己責任を重んじる」国民感情に訴えることで、国民皆保険を阻止しようとしています。

国が国民皆保険制度を作ると、「病院や治療法を選べる自由がなくなりますよ」、「自堕落で自制心のない人たちと一緒にされると保険料が上がりますよ」という反対意見です。
(ちなみにトランプ政権は、国民皆保険に代わる医療費を下げる方法として「医療費の透明性をあげれば競争が促進されて価格は下がる」ということを主張しています。これは逆効果になる可能性が高いのですが、今後機会があれば書きます。)

あなたの「自由」・「特権」が奪われますよ、というのが共和党の主張です

どちらを選ぶのかはアメリカ国民次第ですが、一部の国民が医療へのアクセスが制限されている環境は、コロナウイルスで症状が悪化する人が増える要因となります。そして、悪化する人が増えれば増えるほど、社会問題の顕在化に繋がります。

もしかしたら、コロナウイルスが天秤を動かす鍵になるかもしれません。

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老後資金は2000万円不足するのか?

老後というのは医療への支出が必然的に高くなる時期でもあり、医療業界にとっても関心が高いテーマです。金融庁が公表した「高齢社会における資産形成・管理」の報告書が様々なところでニュースになっているのが興味深いと感じたため、考えることを書いてみます。

金融庁の報告書の要点

報告書の要点としては、以下です。

  1. 人生100年時代となり、現在60歳の人の25%は95歳まで生きると推定される
  2. 現在の「高齢無職夫婦世帯」では毎月の収支が毎月約55,000円の赤字で年間約66万円の赤字になっている
  3. 66歳から高齢無職夫婦世帯となると、95歳末までで66万円 x 30 = 1,980万円 (約2,000万円)不足する
  4. だから若いうちからの資産形成、60歳以降も働き続けること、退職前の収入と支出バランスの見直しと貯蓄が重要
  5. 上の4をサポートするような環境整備が必要(iDeCo、つみたてNISA、金融リテラシーの向上、アドバイザーの充実、高齢者保護)

一言で言うと、「公的年金だけでは不足するので、個々人が貯蓄、投資を行う必要があり、国としてはそれをサポートするような環境を作るべき」、です。この主張自体に驚きはないのですが、驚いたのはこのニュースに対する反応。時事通信社のニュースを引用すると、野党は下記のように年金制度を批判する材料として利用しているようです。

 立憲民主党の福山哲郎幹事長は7日の党参院議員総会で「いつから2000万円ないと老後が迎えられなくなったのか。安倍晋三首相に予算委員会で国民の不安に答えてもらわないといけない」と強調。「逃げたまま衆院解散・総選挙など許されない」と訴え、手始めに首相と全閣僚が出席する10日の参院決算委員会で追及する方針を示した。
首相が自民党幹事長を務めていた04年の年金制度改革は「100年安心」がうたい文句だった。今回の報告書は政府が年金制度の破綻を認めたとも受け取れることから、国民民主党の玉木雄一郎代表は7日の党会合で「100年安心は崩れた」と主張。独自の改革案を提示し、参院選の争点にする考えを表明した。
主要野党が攻勢をかけるのは、参院選に合わせた衆参同日選の臆測も出る中、17年衆院選の際にクローズアップされた学校法人「森友学園」「加計学園」問題など政権を揺さぶるテーマが他に見当たらない事情も背景にある。6日は合同ヒアリングを開き、厚生労働省などの担当者に「公的年金の使命を放棄している」と詰め寄った。

もちろん政治的な意図を持って攻撃するために組み立てているのでしょうが、「2,000万円不足するのは年金制度が破綻しているからだ」というロジックは聞いていて非常に面白いです。いつから年金制度というのはどんな生活をしていても、死ぬまでに必要な金額を全額出してくれるようになったのでしょうか。

老後資金2000万円不足する家庭は限られる

老後に2,000万円という数字が一人歩きしていますが、現実に老後資金不足で困るのは以下が前提とされている状況です。

  1. 「高齢無職世帯」となった時点で十分な貯蓄がない
  2. 収入、支出をコントロールして収入と支出をバランスできない
  3. 年金収入のみが老後資金の源泉である

十分な貯蓄がない

まず一点目の貯蓄についてですが、同じ金融庁のレポートの中で、60-70代の平均的な金融資産は1,830万円とあります。

同レポートによれば90歳まで生きるのが約45%なので、65歳から90歳までに必要な金額は約1,650万円 (66万円 x 25年)。レポート内で用いられている平均的な家庭が平均的な寿命まで平均的な生活をするのであれば、亡くなるときに約180万円を残すことになり、年金制度は老後生活をサポートするのに十分な額を提供していることになります。

つまり、平均的な家庭はお金を使い切る賢いお金の使い方をしていることになります。もちろん平均なので、資産が余る家庭もあれば、足りない家庭もあるでしょうが、平均を見る限り、年金制度が崩壊しているとは言えなさそうです。

収入と支出のコントロール

資産が平均以下の家庭であっても、支出をコントロールすることはできます。

金融庁の報告書の生活費の数字は、厚生労働省の「2018 年度の公的年金額と 2017 年の高齢者世帯の収支」のレポートを元にしているのですが、これを見ると焦点となっている高齢無職夫婦世帯の平均は月21万円で19万円が年金収入。支出を見ると、26.5万円で、その内削れないであろう保険医療と社会保険料は足して4.5万円程度で衣食住が食費で7.7万円、光熱費2.3万円、住居1.8万円、服代1万円。これら以外にも、教養娯楽で2.5万円、交通・通信で4万円、その他で6.8万円の計13.5万円使っており、本当に生活が苦しいのであれば、この衣食住医療以外で削れる余地はあるかと思います。

もしこれらが削れれば、収入と支出のバランスを取ることができ、特に貯蓄が必要でないことになります。

収入の面では、自営業者の家庭で厚生年金に加入しておらずそもそも月19万円も年金がない、という家庭も当然ながらあるでしょう。その場合は年金が月12万円程となり、支出の切り詰めで対応できないことは十分考えられます。金融資産もなく、食事もままならない、と。

それではこういう家庭には打つ手はないのでしょうか。人生100年安心は偽りなのでしょうか。

社会保障からの収入

年金だけでは生活に必要なお金が不足する場合、年金ではなく生活保護がセーフティネットになります。

厚生労働省の生活保護に関する報告書においても、2015年時点でも65際以上の約100万人が生活保護を受給しており、3,500万を超える65歳以上の約3%が生活保護を受給しています。

生活保護制度が続いている限り、日本では健康で文化的な最低限度の生活が保障されています(現実には制度を知らない人がいたり、アクセスがそこまで容易でないという課題がありますが、制度としては存在しており、多くの国民の生活を支えています)。

上記のように、「老後資金2000万円不足するのは本当か?」という質問に対しては、そういう家庭はあるだろうが、現状では限られる、というのが答えでしょう。

年金の役割について

そもそも定義として年金はどんな生活をしていてもその金額を全て保障する制度ではなく、不足は破綻を意味するものではありません。不足についても、家計の貯蓄を考慮しておらず、家計の支出コントロールを無視しているために前提が多くの家庭で成り立っていないため、平均的な家庭で不足するように語るのは誤りです。

また、債務超過となった場合には生活保護を利用するという手段があるため、年金だけで生活が成り立たなければこの世の終わりのように、政治家やマスコミが社会不安を煽るのも望ましくないと思います。

では、年金制度は本当に「安心」できるのか

ただし、これらはあくまでも現在の話であり、年金だけで今後も十分かという問いに対しては、そうでないと答えざるを得ません。

年金制度は破綻しているのか

年金制度が破綻しているとまで突っ込むのであれば、そもそも論を展開してほしいところです。国民年金は国庫負担が半分であり、その額は年間12兆円に達しています。日本の2018年の歳出は98兆円であり、34兆円(約1/3)を借金に頼らないと回らない中で(2018年度予算)、同レベルの国庫負担をいつまで続けることができるでしょうか。

日本はマクロ経済スライドを導入して長期的には給付水準を負担水準と一致するようにしていますが、前提は国家が国民年金の半分を負担し続けられることです。国庫負担を維持できなければ、保険料をあげるか、積立金の取り崩しの速度を早めるか、給付水準を調整するか、年金受け取り年齢を引き上げるか、などの手段を取る必要が出てきます。

ギリシャの例

ギリシャが過去10年間に行ってきたように、日本は将来的にはそのどれも行わざるを得ないでしょう。国民年金は高齢無職世帯の収入のうち約12万円を占めていますから、これが半分の6万円になると、かなり苦しい生活になる人たちが増えてくると思います。

ギリシャの例では、年金の変更で最も被害を受けたのは社会保障が続くという前提で生活を組み立てていた国民でした。今の水準の年金制度が持続可能でない以上、国としてはきちんと現状を伝えて自助努力を促すことは重要ですし、そのための環境整備をすることは国の方針として正しいと思います。

政治家の役割

次の選挙を勝つためには政治家として、現在の麻生財務大臣のように政府は必要な対策をとっており安全ですよ、と伝え続けるのが合理的なのかもしれません。

ただ、それは問題の先送りでしかなく、問題は先に伸ばせば先に伸ばすほど、後になった時の被害が大きくなります。「借金をしてまで現在の高齢者世代に高い年金水準を支払っていますが、持続可能性についてどう考えているのでしょうか。

投票権のない将来世代に負担を先送りするのは政治家として正しい姿でしょうか」、という質問ができるような、将来世代を向いた政治ができる政治家が日本にも出てきてほしいところです。

政府の対応

2019年6月12日追記です。やはりというか、麻生財務大臣が報告書の内容について否定して、年金の信頼性について再度強調しました。

国民はそこまで愚かではないので、政府のこういう答弁は政府への信頼感を落とすと思います。結果的に、国民は自己防衛のために貯蓄にお金を回し、お金が経済に回らず、経済成長を妨げ、賃金が上がらず、貯蓄をするのがより大変になる、という悪い循環にはまっているように見えます。